試されているのは読者側 人形館の殺人<新装改訂版> 感想と考察【ネタバレあり】

感想
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1989年4月に講談社ノベルスから発行された、綾辻行人さん著の推理小説です。
日本のミステリー界に大きな影響を与え、新本格ブームを巻き起こしたとされる作品であり、「館シリーズ」の第四作!!

※今後出てくる作品のページ数は「講談社文庫」<新装改訂版>のページ数です。

あらすじ

父が飛龍想一に遺した京都の屋敷――顔のないマネキン人形が邸内各所に佇む「人形館」。街では残忍な通り魔殺人が続発し、想一自身にも姿なき脅迫者の影が迫る。彼は旧友・島田潔に助けを求めるが、破局への秒読み(カウントダウン)はすでに始まっていた!?シリーズ中、ひときわ異彩を放つ第四の「館」、新装改訂版でここに。

※このあらすじは講談社文庫<新装改訂版>の背表紙から引用しています。

講談社ノベルスの背表紙は煽り文句が過ぎる印象ですが、講談社文庫の背表紙は面白みに欠けますね…
「破局への秒読み(カウントダウン)」というセリフは、センスの欠片も感じられません。

感想

講談社文庫の背表紙で「シリーズ中、ひときわ異彩を放つ」と評される通り、評価が割れる本だと思います。

まずは作品全体の雰囲気が他の館シリーズと異なります。
作者のあとがきの表現(P456)をお借りすると、「一人称の叙述で、語り手の薄暗い内面をぬらりと描き出すようなタッチの小説」です。

また、本作の主人公は、コーヒーを飲みに喫茶店に出かけたり、大門地山の送り火を見に出かけたりと自由気ままに動き回ります。
クローズドサークルが多い館シリーズの中において、これもまた異色と言えるでしょう。

もちろん、人形館を「人形」館とたらしめるよう、身体の一部がそれぞれ欠落した六体の、のっぺらぼうなマネキン人形が館の様々な場所に意味ありげに配置されています。
映像を想像するとかなり不気味な雰囲気の館です…

「ひときわ異彩を放つ」作品に対してどのように評価するかですが、評価を行う前提として重要なポイントがあります。

綾辻行人さんの館シリーズ第一作~第三作を読んでいた状態でこの本を読んだか

です。
綾辻行人さんの館シリーズ第一作~第三作を読んでいない人にとっては、この本を100%楽しむことは不可能です。
出来れば第一作~第三作、少なくとも第二作:水車館の殺人は読破してから読み進めることをオススメします。

この本から館シリーズを読み始めようとする人は、言わばホームズシリーズを読み始める際にモリアーティ教授との死闘を描いた「最後の事件」から読み始めるようなものです!
…少しニュアンスが違いますが、「館シリーズとはどういうものなのか」ということを理解して読み進めなければ綾辻行人さんの仕掛けた罠を楽しむことも見抜くことも出来ません。

しかしながら本作が書かれたのは1989年4月。令和に入った現代においては、「本作最大の問題点」に迫ることはそれほど難しくないと言えると思います。

謎が見抜けた読者は、本作を読む一周目から作者が仕掛けた罠を華麗にかわし、100点満点の解答を論理的に解き明かしてみてください!

総評

読んでよかった度:☆☆☆☆
また読みたい度:☆☆☆
事前に館シリーズを一冊でもいいから読んで欲しい度:☆☆☆☆☆

※以下ネタバレがあります!!

本文からの考察

本作を一言で表現するならば、「語り手が犯人」というものです。所謂「信頼できない語り手」ですね。

この切り口だけならば同様の作品がありますが、さすが館シリーズ。そう簡単なものではありません。
「信頼できない語り手が解離性同一性障害(多重人格)である」というオマケがついています!

フェア・アンフェア論争が起こる「信頼できない語り手」ですが、フェアかアンフェアかの境目は「読者に必要なデータが提示されているかどうか」だと思っています。
本作一番の証拠は「鳴らないはずの電話が鳴っている(電話は主人公の妄想)」ということでしょうか。
電話については「母屋の廊下にある一台と回線を共有している」(P171)としっかりと記述していますから、本作は非常にフェアであったと言えると思います。(電話のシーンで「音量を最小に絞ったうえで、毛布を被せて置いてある」ということも書いていることで、『このシーンは主人公の人間性を書いたシーンなんだ』と思ってしまいました。見過ごしましたね…。また、緑影荘側の電話は使用できる点も見事な罠だと思います)

強いて言えば、目次の次のページ、飛龍家と緑影荘の見取り図に「Fig.1 人形館 平面図/一階」と書かれているところが気になりますが、これも「辻井雪人が書いていた小説の見取り図」という解釈が可能ですので、奇麗なミスリードだと思います。

館シリーズ履修済みの読者

館シリーズ第一作~第三作を読んでいた人は作者が仕掛けた罠にどっぷりと嵌ったと思います。

プロローグに出てくる島田潔の名前(P9)、主人公の父が幻想画家・藤沼一成と交流があったこと(P21)、小説から語られる『人形館の殺人』(P41)などなど、序盤から館シリーズとの関連性をこれでもかと強調しています。

そんな状態で様々な不可解な事件が起きますが、頑丈な錠が下ろしてあった土蔵の中のマネキンに絵の具を塗りたくること(P149)も、はたまた被害者が殺害された場所が(広義的な意味で)密室状態であったこと(P352)も、館シリーズ履修済みの読者には簡単に説明できます。

「ここが人形館だから」です。
(私も主人公と同じで、土蔵と2ーCの間に秘密の通路があると思っていました…)

そして「島田潔」の存在が読者をさらに混乱させます。
あの島田潔の考察が外れるわけがありませんから、事件の動機やアパートの住人と過去の事件との関連性など、読者は盲目的に信用してしまいます。

また、「島田潔」が「中村青司が昔、京都の『人形館』っていう家の改築に関わった。ーーうん。確かにね。そんな噂を耳にしたことがある」(P273)と言うのですから、人形館の存在がより強固になっています。

もちろん、「島田潔」は、よく考えればおかしなことだらけです。
まず、島田潔の口調が、これまでの館シリーズと少し違います。(これについては、「親しい友人にはこのような話し方をするのか」と気にも留めませんでしたが)

そして、主人公から事件のことを相談されたのが本物の島田潔だったのならば「いずれ僕もそっちへ行くから。ちょっとこっちで手を離せない用事があってね、今すぐにってわけにはいかないが」(P304)と言うわけがないです。どんな用事があったとしても、抜群の行動力で飛んできたに違いありません!

館シリーズ未履修の読者

館シリーズを読んでいない人にとっては、正直物足りない内容だったと思います。

最初から「信頼できない語り手」の雰囲気を醸し出している(もちろん、作者が意図的に醸し出させたものですが)主人公が、ずっと独り相撲を取っているような本として読んでしまうからです…

あとがきからの考察

<新装改訂版>では、様々な要素が省かれています。

新装改訂版あとがきの中で

章末にいくつかの「作者註」を付けていたのを、この改訂版ではなくすことにしたのである。当時はそれなりの目論見をもって付した註記だったのだが、今となってはそうこだわる必要もないだろう、との判断で。

と、あります。(P457)

「戦前の梅沢家事件」(P142)に付していた註(※戦前の梅沢家事件……この事件については、島田荘司『占星術殺人事件』(講談社、一九八一年)に詳しい。)以外は、館シリーズ関係の註です。

註を入れた作者の「それなりの目論見」は、館シリーズを読者の前にちらつかせることで、「人形館の殺人」の罠を正しく機能させることだと思います。

それを省いたということは
①すでに館シリーズは世間に認知されたから、今更註を入れなくてもいいだろう!
②読者はそこまで深く読んでいない!

のどちらかだということです。
綾辻行人さんが②のように思っているのならば、少し寂しく思います。

もちろん、「それなりの目論見」館シリーズ第一作~第三作の宣伝、という可能性もありますが。

館シリーズファンにとっては楽しく読める一冊ですし、『占星術殺人事件』への言及や「……ブウウーーーーンンン」(P416)の表記(日本探偵小説三大奇書、夢野久作:ドグラ・マグラが元ネタだと思われます)など、所謂通好みの作品となっていると思います。

綾辻行人さんのどの作品も面白いです!
館シリーズ第五作:時計館の殺人の感想はこちら、その他作品の感想はこちらです。興味がある方はご覧ください。